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2006/04/04

にしすがも創造舎演劇上演プロジェクトvol.3『冬の花火、春の枯葉』

上演前に催しがあるというので、早めに会場につく。200円でビールやワイン、ソフトドリンクを売っており、ワインを買って、舞台側に入ってみると、大正、昭和風味の踊り子さんや女給さんたちのコスプレ(笑)をした人々が踊ったり、給仕をしたりしている。後に舞台となる場所一段高い渡り廊下のようになったところやお立ち台のような部分に腰掛けて、客席側の踊り子さんを鑑賞する。時代風のお客も仕込み(ゲストの俳優さんたち)である。

なかなか目の保養。白黒の記録フィルムでみるこういう人たちとちがって(どれだけ時代考証に忠実かわからないが)まじかにリアルカラー3Dで見ると、結構刺激的なものだ。カフェの女給と色恋沙汰でどうのこうの、という話がわからないでもない。メードカフェがはやるくらいだから、こういうお店も出せばあたるかも、などとちょっと下世話な考えもちらつく(いや、マジで実はやってほしい。昭和初期コスプレカフェバー。)。やがて客席への誘導があり、舞台の最初の数分もレビューショーが続く。

★観劇日:3月27日(月)19:30 上演時間約2時間

肝心の舞台は、東京国際芸術祭TIF2006の最後を飾る、Ort.d-dの倉迫康史の構成・演出による太宰治テキストの舞台化。『冬の花火』、『春の枯葉』という二つの戯曲と『おさん』という短編小説を題材にして、それぞれを一幕ずつに構成した三幕もの。『春の枯葉』のみ事前に読んで出かけた。幸いにも、メインは二幕の「春の枯葉」であったようだ。敗戦直後の青森県で、婿養子に入りながらも、嫁姑に先代と比較され、劣等感や時代的不安から酒びたりになっている小学校教師の小話。

他の幕はストーリーがかなりはしょられていて、抽出されたテキストを、詩的に再現するといった風味だが、この幕はもとの戯曲が短いこともあって、ほぼ全体が上演されていたと思う。ただ、セットや動作があまり具象的ではないので、設定を読み解くのは、家族関係など、とくにたいへんだっただろう。原作には最初に人物設定も詳しく載っているのでわかりやすいのだが。

原作を読んだときは、この先生がこんなに終始ぐでんぐでんに酔った状態で出てくるとは思いもしなかった。カリカチュアライズされた(酔拳みたいな?)動きは原作と距離をおこうとする解釈のひとつだ。メチルアルコールをしこたま飲んだ先生は、酔いつぶれて寝たまま冷たくなってしまう。それに対して妻が「私が悪かったのです。こころを入れ替えてお酌でもなんでもしようと思っていましたのに…」という後悔のせりふをいうのだが、ここも、あっさりと、本当はそんなこと思っていないわ、というような冷たい口調で言っていたことにも驚いた。原作からはそうした意味合いは感じられなかったからだ。

そのほか、三人一役のような場面があったり(一幕)、「カキクケコ」を「きゃききゅけきょ」というように発音したり、わざとガイジンの日本語口調になったりと、セリフの発話を崩していくやり方は、たしかに〈ク・ナウカ〉や、〈地点〉の方法を意識したものと感じられた。ただ、特にセリフの発話のくずしは、人工的な印象をうけるとともに、なぜそうするのか、という意図が判然とせず、単なる思い付きのようにも思われた。つまりちょっと面白そうだからやってみましたよ、というだけのものに感じられてしまった。

すでに二幕まででけっこう長く難解なので疲れてしまっていたのだが、三幕は構成上やはり必要だったのだろう。女と心中してしまうジャーナリストをその妻の側から語っっている。ここで作者太宰の分身が顔を出すといってよい。これも抽象的な空間での演技なので、設定がつかみにくいところがあるが、妻と夫しか登場しないからまあわかりやすい。やはり敗戦直後のころ、妻は夫が事業の失敗で消沈し、外に女ができたことを感じつつも、平和な家庭を壊したくなくて煩悶し続ける。ときたまの打ち解けた会話も持ちつつある日夫は温泉に行くといって出かけたまま心中してしまう。

夫が最後に舞台後方で、後ろ向きで手を水平にし、十字架にかかった体をなしたのは、「負の十字架にかかる」といった太宰の言葉を象徴させる。それに対して舞台前面に座って正面を見据えたまま、妻は、夫の遺言(ジャーナリストの堕落に対して一石を投じるため、といった意味のもの)の浅薄さ、無意味さを完璧なまでになじる。この対立がはっきりと浮き彫りになった場面は迫力があり、面白かった。妻役の女優の声もすばらしかった。

作者でありながら、作者自身の生き様、主張を、完膚なきまでに妻の言葉によってたたきのめす。太宰治のテキストは非常に興味深いものだな、と感心した。この舞台で何がすごいって、やはり太宰治が一番すごいのではないかと。しかし、帰宅して原作である「おさん」を読んでみたところ、あらすじもテキストも同じものなのに、印象がちがうのだ。太宰の小説はやはりこのジャーナリストをかばった書き方になっているし、妻の感情も実はかなり作者太宰よりに感じられた。つまりポリフォニックではないのだ。すべてが作者から出た言葉であることが感じられるモノフォニックなテキストだったのだ。

原作者のつむぎだしたテキストから、作者自身を対象化する視点を抽出し、みごとにポリフォニックな空間を創出した功績は、やはり演出家と俳優に帰すべきものだったのである。

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『冬の花火、春の枯葉』

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