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2005/02/27

『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(シアターコクーン)

楽日近くになってやっと話題の舞台を観た。舞台近くの座席で観るには刺激が強過ぎる作品だ。終演後、しばらくは茫然とした。

観劇日 2月25日(金) 19:00開演 XB列左ブロック
上演時間約2時間45分(20分間の休憩を含む)

蜷川氏は役者に対して、なんと過酷な演出を課すのだろう。舞台三方が高い全面の階段になっている。砦か城の石段を模したのであろうか。その急角度たるや、最前列からはそびゆる山を見上げるごとくである。段の中段や最上部に出入り口があり、役者はそこから現れ、階段を上り下りしながら、演技をする。激しい立ち回りは少ないが(スローモーションとなった立ち回りシーンあり)急ぎ足での上り下りはしばしばで、よほど足下が確かでなければ危険である。観ているだけではらはらさせられる。出演者の足腰への負担は相当なものであろう。

さらに冒頭を含めて二回ほど石つぶてが舞台に降ってきて、客席の足下まではねてきたり、二幕では巨大な阿修羅像が上から逆さにぶら下げられて揺れる真下での演技があったり。そして雪。紙吹雪が、二幕開始直後と途中で降りしきり、前方数列の客席まで容赦なく降り注ぐ。こうした過剰なふりもの、段差舞台、通路まで使った演技(今回は中二階やコクーンシートにまで「歩き巫女」があらわれてセリフを叫ぶ。)は蜷川演出にはしばしば現れていたが、それらの特長を全て総合してより攻撃的にしたかたち。これでもか、である。

なおかつ自分の1メートル以内かと思われる近さに、木村佳乃や段田安則など、花のある女優や演技巧者の俳優が座して演じるにいたっては、息がつまるほどであった。そんな芝居を最前列で観て、紙吹雪で埋もれてしまい、もう、清水邦夫がどうの、連合赤軍がどうの、と分析するひまもない。圧倒されてしまった。

朝廷に反旗を翻し「新皇」を名乗った平将門だが、藤原秀郷の追討軍に破れ敗走している。そのさなか将門は頭を打ち、自分が生涯をかけて将門を追悼している武将だと思い込んでしまう。妻、桔梗の前(木村)や参謀の三郎(段田)は、将門の影武者を身代わりにしながら、追討軍を免れて逃げ延びようとするが、三郎の弟五郎が桔梗の前の策略により将門自身にとってかわろうとするなど、内紛も起こり、状況は混乱し、将門も狂ったままである。

「反権力闘争」「日和見」「連帯」などの全共闘運動などに象徴される闘争運動の語彙がふんだんに出てくる戯曲だが、段田安則(三郎役)が一瞬、拡声器のマイクを握った仕草で語り、笑いを誘ったように、それらはもうまじめな意味としては扱われていない。冒頭にあらわれる鉄球(あの「あさま山荘事件」だ)や、効果音として使われるデモ隊や機動隊と思われる喧騒、そして、堤真一の「将門」の狂い方が、コミカルで一種「可愛らしい」狂い方であること(堤ファンにはたまらないらしく、いちいちウケている女性が多い)までも含めて、現在映画などに多い、単純でノスタルジックな懐古趣味と、批評的に距離をおいてあの時代の価値を無意味化する立場(先日のク・ナウカ『ぼくらが非常の大河をくだる時』がその先鋭的演出であるような)との微妙なバランスの中に「あの時代」が扱われているように感じた。

いずれにしても、「あの時代」がすでに商業演劇の場でさえも「歴史」として吸収されはじめた(その早い萌芽は2000年の野田秀樹『カノン』なのだろうが)ことを象徴しているということだろうか。『ぼくらが』の仲田演出が言葉にまつわる情念を、徹底して排除しようとしたのに対して、蜷川演出の言葉は軟弱な笑いによって、商業演劇の観客に媚びながらも、戯曲にまつわる情念を消し去ることはない。いや、その情念自体を突出させるということが商業演劇的なのだろうか。パンフレット(2000円)掲載のインタビューで「ゆき女」役の中嶋朋子は次のように言う。

〈台本を読んだ時に遠い感じがしなかったんですよ。時代物とか言葉が難しいと、引き寄せる作業がいるんですが、『将門』はそうじゃなかった。今、上演することにすごく意義がありそう、と思いました。自分の奥の方に眠らせてしまった何かがあるかもと、ふるふるする気持ちに触ってくるものがすごくあったんです。それは私より若い世代にも届くだろうし、このふるふる感を届けたい(笑)。戯曲にこういう意味があってだから今やる……ということですらなくて、もっと人の中にある根源的な熱が、いろいろな角度から明らかになるから、熱量の少ない感じがする今の時代にとって、すごくいい作品だなと思います。〉

この言葉には何かヒントがあるような気がしている。単なる時代回顧趣味ではなく、また歴史的意味合いの排除でもない、戯曲の言葉の持つ中嶋いうところの「ふるふる感」。自分が感じたのも、これだったような気もする。それは一歩間違えば、また別の意味でどこか世俗的なところへ吸収されてしまいかねないけれど、それでもそうではない面を見落としてはいけないと思うのだ。

この戯曲は当時、作者の清水と「櫻社」を結成していた蜷川が、商業演劇の舞台を演出したため、劇団が解散することになった経緯が背景にあるともいう。「わたしたちは不幸な集団になりましたね」という桔梗の前の言葉が、熱く混乱したエネルギーにあふれた青春が確実に終わったという実感を伝えて、深く心に残った。

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シアターコクーン『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』
2005年2月5日(土)〜2月28日(月)
観劇日 2月25日(金) 19:00開演 XB列左ブロック
上演時間約2時間45分(20分間の休憩を含む)

作 清水邦夫 演出 蜷川幸雄
出演 堤真一 木村佳乃 段田安則 中嶋朋子 髙橋洋 田村涼成 他

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