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2005/01/28

野田地図第10 回公演『走れメルス』(6回目)

楽日近づき、いよいよ最後の観劇になるか。
七人の刑事の一人、臑毛田刑事役の六角慎司さんが「急病のため降板、七人の刑事は六人の刑事で」との張り紙が劇場入口に。セリフは別の刑事がカバーして(こちら岸の三匹の侍は二匹の侍で)こなす。聞こえていた声が足りないのはやはり淋しい。もうこの舞台を観られないのか、と思うとそれもまた淋しい。

(観劇日 1月27日(木)19:00開演)

今回の「走れメルス」については、意味がわからないし、古い、つまらない、と拒否反応を示す意見があり、また、古くからの遊眠社ファンからは、当時の方が俳優が良かった、面白かった、勢いがあった、小さなハコでやるべきだ、などという「再演は失敗」的な意見もみられた。一方で、意味はわからなくても、面白い、満足感がある、疾走感を楽しめばよい、自分なりの解釈でみればよい、と肯定的な意見もたくさんあったと思う。

では自分のことを考えてみて、どのようにこの作品を観て、観続けたのかというと、それは「意味の宝庫」として観ていたのだと思う。こういう職業につくまで、小説や詩など日本語の文学テキストをどう解釈するか、という訓練はやまほどしてきたわけだから、作者も言う通りこの作品は「抽象度が高い」がゆえに、さまざまな解釈の可能性があるということは初見で直感的に感じた。

回数を重ねて観れば観るほど、さまざまな意味が言葉や空間や身体からしみ出てくる。以前の脚本に加筆訂正され、また新しい演出を施されたがゆえに、それはさらに読み解く快楽を与えてくれる。そして、その意味を捕まえたかと思う矢先、その意味はするっと身をかわして、裏返されたり、 逃げ去ったりしてしまう。この目眩く意味の乱反射、そして最後には意味に振り切られて、感覚だけに身をゆだねなければならなくなったときの、負けた、という爽快感。

そういったものを味わってきたのだと思う。それはとりもなおさず、非常に強い「ことば」の持つエネルギーであって、静かな演劇系統がはびこらせた演劇界における、一種の言葉のリアリズムに対するアンチテーゼであり、テレビドラマや映画の安直な予定調和的「物語」感性への「悪意」ある「挑戦」なのだろう。

「世の中には、いっぱいいっぱい無知な人がいるのよ」という女流評論家桐島洋子のセリフをいう野田氏は、公演前半では、客席を指さしていたのだが、年明け後半になると、その仕草はなくなっていた。それは、予想していたほど拒否反応が大きくなかった、観客に対しての作者自身のイメージの変化を表現しているのだろうか?

しかし、このように、さまざまな「意味」をおいかけていっても、芙蓉に「嘘よ」、と一蹴されてしまうスルメと同様、とらえようとした「意味」は鏡合わせの劇構造の乱反射の中に消えていき、野田氏に「嘘だよ」と言われてしまうのだろう。そうか、自分は下着泥棒のスルメと同じように芙蓉に恋をして、嘘をつかれることを喜んでいたのだ。


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